近代から現代にかけての世界の一体化 < 世界の一体化 > 現代の世界の一体化
現代の世界の一体化では、1967年以降の世界の一体化の過程に取り扱う。ベトナム戦争によって、アメリカ合衆国が国際的な経済的地位を喪失していく中で、日本と西ドイツを中心とする西ヨーロッパが経済的地位を回復していった。その後、西側世界は、欧米日による三極構造が形成されていった。一方、東側諸国の中でもソビエト連邦と中華人民共和国の対立が続き、ついに、リチャード・ニクソン大統領による電撃的訪中と毛沢東主席との首脳会談という形で従来の政治構造が大きく変動することとなった。
一方で冷戦構造の中で見落とされがちであった多極化の動きが現代では進行している。雁行型の経済成長がアジア地域で進行し、日本に続いて、大韓民国、香港、台湾、シンガポールが、それに続く形でインドネシア、マレーシア、フィリピン、タイが経済的にテイクオフし、10億以上の人口を誇る中国、インドがアジア通貨危機の中で失速する東アジア・東南アジア地域を尻目に高度経済成長を遂げ、政治的にも経済的にも台頭しだした。
ヨーロッパではECが拡大発展し、ヨーロッパ連合が結成され、東欧革命以後、民主化及び経済の資本主義化が進展していった中欧・東欧諸国が次々と加盟し、単一の経済市場が形成された(ユーロの導入)。また、2000年以降のエネルギー価格の上昇を契機に一旦、破産状態に陥ったロシアが再び、天然ガスと原油を武器に国際経済に占める地位を上昇させてきている。
一方で、ソ連によるアフガニスタン侵攻の時には見落とされがちであったイスラーム世界のアイデンティティ・クライシスは深刻であり、その結果がアメリカ同時多発テロへ発展した。その後、アフガニスタンにアメリカを中心とする多国籍軍が派遣されたが今もなお、アフガニスタンとその周辺国をめぐる国際情勢は流動的である。
1960年に南ベトナムに、アメリカの傀儡政権の打倒と南北統一を主張する南ベトナム解放民族戦線が結成され、政府軍に対する武力闘争開始すると、アメリカのジョン・F・ケネディ大統領は傀儡政権と間接支配を維持するため、1961年にアメリカ軍を派遣して、南ベトナム解放民族戦線に対する武力行使を開始した。1963年の時点では1万6千人のアメリカ軍を投入したが、大部分の南ベトナム国民は腐敗した傀儡政権を支持せず、南ベトナム解放民族戦線を支持したので、アメリカ軍は南ベトナム解放民族戦線を壊滅できず、ケネディ大統領は1963年10月の時点で、2年後の1965年度末までに撤退を模索したが、直後の1963年11月に暗殺された。1964年8月にベトナムでトンキン湾事件がおこると、リンドン・ジョンソン大統領は1965年2月に北爆を開始して戦線は北ベトナムにまで拡大した。1965年3月にはアメリカは地上軍の派遣を開始し、ベトナム戦争の最盛期の1968年には、南ベトナムの領土内だけでも54万人のアメリカ軍を派遣するなど、第二次世界大戦終結後のアメリカでは最大規模の軍事力を投入した。
日本では、池田勇人首相による「所得倍増計画」が1960年12月に発表され、高度経済成長路線を邁進した。1964年の東海道新幹線の開通と東京オリンピックの開催、1970年の大阪万国博覧会といった内需の要因に加え、ベトナム戦争の特需もあり、池田首相が唱えた所得倍増は1967年に達成されることとなった。また、日本が戦前並の世界輸出シェアに復帰したのは1960年代の半ばだったが、その貿易自由化が実現の途についたのも同じころだった。日本はこののち、オイルショックを乗りきって経済大国としての地位を確立し、軍事的には、アメリカに対してはほぼ一貫して同盟者でありつづけたが、1970年代以降は輸出拡大にともなって日米間に貿易摩擦が生じた。
同様に、西ドイツも経済復興の動きが展開された。コンラート・アデナウアー首相のもとで、ルートヴィヒ・エアハルト副首相の経済政策によって、西ドイツは、ヨーロッパの中での経済大国としての地位を確立させていった。このころの経済成長を「エアハルトの奇跡」とも呼ぶ。
戦後の世界貿易をリードしてきたヨーロッパ経済共同体(EEC)は、域内貿易を活発にして協調関係の拡充に成功する一方、関税同盟としては域外差別の体制をとった。こうしたEECの「要塞化」に対してはアメリカの反発があった。また、フランスが1966年に北大西洋条約機構(NATO)の軍事機構から離脱(政治機構には継続加盟)し、西ドイツが独自に東方外交を展開して、1973年に東西ドイツの国連同時加盟を実現したように、西欧諸国はアメリカとは一線を画した独自の姿勢をうちだすようになった。
アメリカ合衆国も経済的繁栄を享受していたが、西欧や日本の輸出の伸びとは対照的に、終戦直後の輸出シェアを1980年に至るまで低下させつづけた。
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1960年代後半のアメリカでは、ベトナム戦争による財政赤字、経済成長にともなうインフレーション、また、貿易赤字の拡大が表面化した。このような経済情勢を背景に、1971年8月15日、リチャード・ニクソン大統領は、突如、ドルと金の兌換の停止を発表した(ニクソン・ショック)。その後のスミソニアン協定で、1ドル=360円が308円に切り上げられたが、アメリカの貿易赤字の拡大はとどまることなく、ドルを基準とする固定相場制は崩壊して、先進国は1973年に変動相場制に移行することとなった。ニクソン大統領による、ソ連との第一次戦略兵器制限交渉、弾道弾迎撃ミサイル制限条約、多国間の生物兵器禁止条約への署名、文化大革命中の1971年の中華人民共和国との国交正常化は、世界の諸国に対するアメリカの国力・影響力の相対的な衰退による現象という一面でもあった。1973年1月にアメリカと南ベトナムと北ベトナムと南ベトナム解放民族戦線の和平協定が成立し、1973年3月にアメリカ軍はベトナムから撤退した。
こうしてアメリカが著しく後退する一方で、西欧諸国や日本の立場が強まり、1975年からは、フランスのヴァレリー・ジスカール・デスタン大統領の提唱により、アメリカ・西欧諸国・日本が参加する主要先進国首脳会議(サミット)が毎年開催されるようになった。
社会主義陣営においても、とりわけ中国において、ソ連からの自立の動きが顕著になった。中国は、1956年からのニキータ・フルシチョフ議長による対西側緊張緩和政策には批判的であり、1960年、ソ連共産党指導部が中国に派遣していた技術専門家をひきあげると、中ソ対立は公然のものとなり、中国はキューバ危機における対米譲歩についてもソ連を非難した。この対立は、文化大革命がおこるといっそう激しくなり、1969年には中ソ国境紛争にまで発展した。
このように、1960年代には東西両陣営の内部で米ソに対抗する国ぐにが台頭し、60年代後半以降は世界の多極化という傾向が顕著になっていった。