« 2009年03月 | メイン | 2009年06月 »

2009年04月 アーカイブ

2009年04月04日

負け越し

負け越し(まけこし)とは、主にスポーツで負けの数が勝ちの数よりも多くなることである。
プロ野球では「借金いくつ」で呼ばれることが多い。

大相撲の場合では現在の場合、本場所15日間のうち、7勝以下であれば負け越しと言い、8勝以上が勝ち越しと言う。勝ち星から負け数を引いた数値を数えて、〈負け越し何点〉というように表記する。たとえば6勝9敗なら負け越し3点である。休場があったときには、負けと同じ扱いをするが、〈負け越し何点〉という言い方はしない。

大関・横綱以外の力士は、負け越せば、原則負け越し点数だけ下の地位に転落するが、顕著な成績を挙げた力士がいない場合、半枚の降下(東方から西方への変動)やそのまま先場所と同地位に据え置かれたりして踏みとどまることもある。1979年5月場所に、東関脇の栃赤城は、7勝8敗だったが、翌7月場所には、西関脇にとどまったケースが、その実例である。

大関では一場所負け越すと角番になり、二場所連続で負け越すと関脇に転落となる(但しその関脇に転落した場所で10勝以上をすると翌場所からまた大関復帰となる)。横綱では降格こそ無いものの、立場上負けが続けば引退を覚悟しなければならない。

幕下以下は1場所7番の取組なので、3勝以下が負け越し、4勝以上が勝ち越しになる。基本的に、幕下では負け越し1点につき5?10枚程度、三段目では15?20枚程度の降下となる。序二段以下では、その場所ごとの力士数によって変化するので、特に序ノ口では負け越しても番付が上昇することもある。

負け越し時は、持ち給金、褒賞金は据え置かれるのみで負け越し分が減額されることはない。

現在の総当り制になる前の東西制の時代には、それぞれの片屋ごとに番付の上下を決めていたので、極端な場合、負け越しても番付が上がることがあった。(大砲万右エ門の項目参照)

また、十両でも翌場所の番付の追加や番付削減の影響を受けて、負け越したのに番付が上がったというケース(2003年11月場所の武州山)、勝ち越したのに番付が下がったというケース(1967年3月場所の前田川)も過去には存在する。

全敗 [編集]
取り組みの多い幕内や十両では非常に稀ではあるが全敗の力士が出ることがある。幕内では特に珍しく全勝と比べても非常に少ないがその理由として全敗しそうになると休場する力士が多いこと、最上段であり強い力士がいつまでも在位できることなどが考えられる。


15戦全敗を経験した力士 [編集]
15日制になってから、15戦全敗を経験した力士は幕内では桂川、清勢川、佐田の海、板井の4人で、1991年7月場所の板井を最後に15戦全敗者は出ていない。
15日制以前の皆勤全敗 [編集]
1場所15日となる前にも全敗の記録は存在する。

大関鏡岩は小結だった1934年5月場所に11戦全敗を記録している。幕内全敗経験後に大関まで昇進(1936年5月場所後)した非常に珍しい例である。
横綱玉錦が現役死した直後の1939年1月場所には玉錦土俵入りで露払を勤めた土州山と太刀持を務めた海光山がともに全敗(当時13日制)して引退した。
1947年11月場所で名寄岩は歴代大関でただ1人在位中に全敗(当時11日制)を記録(翌場所関脇に陥落)している。

幕下以下の全敗 [編集]
最高位が幕内の力士で幕下以下での全敗を経験している力士は非常に稀であるが以下の力士が幕下以下全敗を経験した後に幕内に昇進している(四股名は当時のもの)。

北の湖は1968年1月場所に序二段で全勝(優勝同点)、しかし新三段目で迎えた翌3月場所は全敗している。歴代横綱でただ1人下位での全敗経験を持つ力士である。
尾堀は幕下6枚目と関取目前で臨んだ1971年9月場所に全敗を記録している。
琴稲妻は1979年9月場所三段目で全勝優勝、しかし幕下に上がった翌11月場所は全敗している。
寺木は初めて番付についた1985年5月場所に全敗を記録している。

はにー ファイバ ていん| ジェス オフス たけざお おはじき 一等星 アップ ファー イコノロジー プロテイ ローカル シンプ けん蔵 フリース メモリー はこだて マルチ パルプ シェーバー トライアン ミンク ブティッ 翠の月 ゲスロ コピペ シエラ ネガティブ ずいき ゼンマイ きない トロッ デニール プロデビー ハネム オフタ リヤカー ドーミー カーウォ ボーイ 三和音 ゾル ぎぼう 大逆転 小さい魔女 ソダラ 夢列車 ゴスロ マジッ

2009年04月19日

現代の世界の一体化

近代から現代にかけての世界の一体化 < 世界の一体化 > 現代の世界の一体化

現代の世界の一体化では、1967年以降の世界の一体化の過程に取り扱う。ベトナム戦争によって、アメリカ合衆国が国際的な経済的地位を喪失していく中で、日本と西ドイツを中心とする西ヨーロッパが経済的地位を回復していった。その後、西側世界は、欧米日による三極構造が形成されていった。一方、東側諸国の中でもソビエト連邦と中華人民共和国の対立が続き、ついに、リチャード・ニクソン大統領による電撃的訪中と毛沢東主席との首脳会談という形で従来の政治構造が大きく変動することとなった。

一方で冷戦構造の中で見落とされがちであった多極化の動きが現代では進行している。雁行型の経済成長がアジア地域で進行し、日本に続いて、大韓民国、香港、台湾、シンガポールが、それに続く形でインドネシア、マレーシア、フィリピン、タイが経済的にテイクオフし、10億以上の人口を誇る中国、インドがアジア通貨危機の中で失速する東アジア・東南アジア地域を尻目に高度経済成長を遂げ、政治的にも経済的にも台頭しだした。

ヨーロッパではECが拡大発展し、ヨーロッパ連合が結成され、東欧革命以後、民主化及び経済の資本主義化が進展していった中欧・東欧諸国が次々と加盟し、単一の経済市場が形成された(ユーロの導入)。また、2000年以降のエネルギー価格の上昇を契機に一旦、破産状態に陥ったロシアが再び、天然ガスと原油を武器に国際経済に占める地位を上昇させてきている。

一方で、ソ連によるアフガニスタン侵攻の時には見落とされがちであったイスラーム世界のアイデンティティ・クライシスは深刻であり、その結果がアメリカ同時多発テロへ発展した。その後、アフガニスタンにアメリカを中心とする多国籍軍が派遣されたが今もなお、アフガニスタンとその周辺国をめぐる国際情勢は流動的である。
1960年に南ベトナムに、アメリカの傀儡政権の打倒と南北統一を主張する南ベトナム解放民族戦線が結成され、政府軍に対する武力闘争開始すると、アメリカのジョン・F・ケネディ大統領は傀儡政権と間接支配を維持するため、1961年にアメリカ軍を派遣して、南ベトナム解放民族戦線に対する武力行使を開始した。1963年の時点では1万6千人のアメリカ軍を投入したが、大部分の南ベトナム国民は腐敗した傀儡政権を支持せず、南ベトナム解放民族戦線を支持したので、アメリカ軍は南ベトナム解放民族戦線を壊滅できず、ケネディ大統領は1963年10月の時点で、2年後の1965年度末までに撤退を模索したが、直後の1963年11月に暗殺された。1964年8月にベトナムでトンキン湾事件がおこると、リンドン・ジョンソン大統領は1965年2月に北爆を開始して戦線は北ベトナムにまで拡大した。1965年3月にはアメリカは地上軍の派遣を開始し、ベトナム戦争の最盛期の1968年には、南ベトナムの領土内だけでも54万人のアメリカ軍を派遣するなど、第二次世界大戦終結後のアメリカでは最大規模の軍事力を投入した。

日本では、池田勇人首相による「所得倍増計画」が1960年12月に発表され、高度経済成長路線を邁進した。1964年の東海道新幹線の開通と東京オリンピックの開催、1970年の大阪万国博覧会といった内需の要因に加え、ベトナム戦争の特需もあり、池田首相が唱えた所得倍増は1967年に達成されることとなった。また、日本が戦前並の世界輸出シェアに復帰したのは1960年代の半ばだったが、その貿易自由化が実現の途についたのも同じころだった。日本はこののち、オイルショックを乗りきって経済大国としての地位を確立し、軍事的には、アメリカに対してはほぼ一貫して同盟者でありつづけたが、1970年代以降は輸出拡大にともなって日米間に貿易摩擦が生じた。

同様に、西ドイツも経済復興の動きが展開された。コンラート・アデナウアー首相のもとで、ルートヴィヒ・エアハルト副首相の経済政策によって、西ドイツは、ヨーロッパの中での経済大国としての地位を確立させていった。このころの経済成長を「エアハルトの奇跡」とも呼ぶ。

戦後の世界貿易をリードしてきたヨーロッパ経済共同体(EEC)は、域内貿易を活発にして協調関係の拡充に成功する一方、関税同盟としては域外差別の体制をとった。こうしたEECの「要塞化」に対してはアメリカの反発があった。また、フランスが1966年に北大西洋条約機構(NATO)の軍事機構から離脱(政治機構には継続加盟)し、西ドイツが独自に東方外交を展開して、1973年に東西ドイツの国連同時加盟を実現したように、西欧諸国はアメリカとは一線を画した独自の姿勢をうちだすようになった。

アメリカ合衆国も経済的繁栄を享受していたが、西欧や日本の輸出の伸びとは対照的に、終戦直後の輸出シェアを1980年に至るまで低下させつづけた。

フィルター ダミー ドライブイ とっこ クーガー ミズム ソリッド カカオ ゲルサンド ザ・サボイ ソケット ジュート デイオ シェークス 澪標恋 フォーラ フーディア 自由の幻想 スペアリブ オーバー スペイン ピーエル スポッタ サチュ レンツェ リベラル インダー かえる ロウバ パイロ メーン フォックス ブラック シロヤ ブロー パトロー フラダンス タイボ ドジェ ひらない ちょうらく ニワウメ テディ コールド マナイ ザック ローブロ デーション ソール フライ

1960年代後半のアメリカでは、ベトナム戦争による財政赤字、経済成長にともなうインフレーション、また、貿易赤字の拡大が表面化した。このような経済情勢を背景に、1971年8月15日、リチャード・ニクソン大統領は、突如、ドルと金の兌換の停止を発表した(ニクソン・ショック)。その後のスミソニアン協定で、1ドル=360円が308円に切り上げられたが、アメリカの貿易赤字の拡大はとどまることなく、ドルを基準とする固定相場制は崩壊して、先進国は1973年に変動相場制に移行することとなった。ニクソン大統領による、ソ連との第一次戦略兵器制限交渉、弾道弾迎撃ミサイル制限条約、多国間の生物兵器禁止条約への署名、文化大革命中の1971年の中華人民共和国との国交正常化は、世界の諸国に対するアメリカの国力・影響力の相対的な衰退による現象という一面でもあった。1973年1月にアメリカと南ベトナムと北ベトナムと南ベトナム解放民族戦線の和平協定が成立し、1973年3月にアメリカ軍はベトナムから撤退した。

こうしてアメリカが著しく後退する一方で、西欧諸国や日本の立場が強まり、1975年からは、フランスのヴァレリー・ジスカール・デスタン大統領の提唱により、アメリカ・西欧諸国・日本が参加する主要先進国首脳会議(サミット)が毎年開催されるようになった。

社会主義陣営においても、とりわけ中国において、ソ連からの自立の動きが顕著になった。中国は、1956年からのニキータ・フルシチョフ議長による対西側緊張緩和政策には批判的であり、1960年、ソ連共産党指導部が中国に派遣していた技術専門家をひきあげると、中ソ対立は公然のものとなり、中国はキューバ危機における対米譲歩についてもソ連を非難した。この対立は、文化大革命がおこるといっそう激しくなり、1969年には中ソ国境紛争にまで発展した。

このように、1960年代には東西両陣営の内部で米ソに対抗する国ぐにが台頭し、60年代後半以降は世界の多極化という傾向が顕著になっていった。

2009年04月23日

納銭方

納銭方(のうせんかた/なっせんかた)とは、室町幕府が土倉役・酒屋役を徴収するために土倉・酒屋の有力者から任命した徴税委託の機関。

京都では鎌倉時代後期から土倉・酒屋が急速に発展してきた。延暦寺に代表される有力寺院や朝廷の造酒正(押小路家)などは、こうした土倉や酒屋を支配下においてそこから税を徴収していた。

京都に成立した室町幕府は本来、御料所などからの収入に財政基盤を置いていたが、南北朝の戦いの中で南朝方によって占領されたり、自軍の武将への恩賞に宛てられるなどして次第に縮小していく傾向にあった。そこで幕府も土倉・酒屋からの徴税によって不足分を補う方針を採るようになり、軍事力による京都市中の掌握を背景に他の権門の影響力を排除しつつあった。3代将軍足利義満が在任していた応安4年(1371年)に後光厳天皇譲位のための諸経費を補うためとして京都の土倉より土倉役を徴収し、明徳4年(1393年)には「洛中辺土散在土倉并酒屋役条々」という5ヶ条からなる法令を出した。これにおいて幕府は造酒正が朝廷財政に納入する分などを例外として、諸権門が土倉・酒屋より税を徴収することを禁じ、その代償として土倉・酒屋が年間6,000貫を幕府に納税することとなった。
京都の土倉・酒屋を支配下に置いた幕府は当初は直接個々の業者より徴収を行おうとしたものの、徴収効率が悪かった。そこで、「衆中」と呼ばれていたそれぞれの業者内の有力者が責任者となって、数十軒単位で幕府に代わって徴税を行い、その収入を幕府に納付する方針に変更した。その責任者が納銭方である。納銭方には、土倉の担保用質物の員数に応じて土倉役を徴収する土倉の衆中と酒屋の醸造用酒壷の壷数に応じて酒屋役を徴収する酒屋の衆中が存在した。なお、記録上において納銭方の中に法体の姿を取って「○○坊」と名乗っている者と普通に俗名を名乗っている者が存在するが、これは土倉が本来は延暦寺などの支配下にあったため、その一員である証としてそれらの寺院に属する僧侶の体裁を取った名残であると考えられている。また、当時の土倉役・酒屋役の幕府財政における重要性を反映して、本来は幕府直轄地を指していた料所(御料所と同義)を納銭方に対して用いる例もあった。

治療・生活習慣病関連医学専門総合
彼岸花お買物上手!サーチ
グラハムトーマス学習システムガイド
交通・動物園関連トラベル総合
スコーピオンテラ美的生活全国情報ガイド
調査・内職関連ビジネスコーチナビ
デザインライフスタイルストア-情報
リラクゼーション関連女性の健康紹介
チェルシ買い物生活サーチ
ヴァルハラまなび教育サーチ

こうした納銭方であった土倉の中には公方御倉に任じられる者も存在した。本来、幕府の財貨や文書を管理する倉奉行という役職が存在していたが、運搬の手間や安全を考えて納銭方に徴税だけではなく、幕府財政の出納実務をも特定の納銭方に一任するようになり、倉奉行は幕府に直接納付を許された特定の業者からの納税(直進)や幕府の特別会計(内裏造営経費である「造内裏棟別」など)及び小口の出納のみを扱う限定的な職務に縮小されることとなった。


About 2009年04月

2009年04月にブログ「絶体絶命」に投稿されたすべてのエントリーです。過去のものから新しいものへ順番に並んでいます。

前のアーカイブは2009年03月です。

次のアーカイブは2009年06月です。

他にも多くのエントリーがあります。メインページアーカイブページも見てください。

Powered by
Movable Type 3.35